12月 29, 2019

「マルコによる福音書」雑感

 わたしは神学生時代の研究テーマとしてマルコ福音書を取り上げていました。まだ神学部に行く前から、わたしはこの福音書が気になって仕方がなかったのです。

 マルコ福音書は、福音書という形式でイエス様の生涯を語った最初の文書です。それまでに流布していたのは、パウロの手紙を中心とする書簡形式の文書だったといわれています。しかも、それらはイエス様が復活された後に書かれたもので、パウロにしても生前のイエス様に会ったことがあるわけではありません。ですから、その内容はどうしても観念的なものになりがちです。
 
パウロの手紙を読むと、キリスト教とはどういうものか、あるいは信仰とは何かなど根源的に考えさせられるところは多いのですが、イエス様がその一生で実際にどんなことをされたのかについてはほとんど分かりません。

 「パウロさんは復活のイエス様はよく語るけど、実際のイエス様はどうだったんだろう。」
 
 そう思った人たちの中に、マルコ福音書の著者マルコがいた。そのマルコに神が臨まれたのです。聖霊で満たされたマルコは、イエス様の公生涯を事実に即して書き残しました。
 
 もっとも、事実とは言っても、マルコがイエス様を知っていたわけではありません。ただ、マルコ福音書が書かれた西暦60年代(わたしは60年代前半だと思っているのですが)には、イエス様の言行に関するかなりの数の言い伝えや書き残された資料があったようです。マルコは、そのような伝承を元に、また一部は生前のイエス様と行動をともにした弟子たちから聞いたことを材料に、イエス様の姿をできるだけ忠実に描き出そうとしたのだと推測されます。

 マルコによる福音書は、最初の福音書として大きな意味を持っています。実際マタイ福音書やルカ福音書が、マルコ福音書を種本にして書かれていることは研究者の中でもほぼ定説となっています。そうじゃないよと言う人もいるのですが、それを取り上げると難しくなってしまうので、今は止めておきましょう。

 また、マルコ福音書には、他の共観福音書にある誕生物語や、イエス様の系図がありません。マルコはそれらの一切を捨象して、イエス様の生き方だけに筆を集中します。マタイやルカにある長い説教(山上の説教など)がマルコにないのはそのためだと思われます。そこには神の子でありながら真の人の子として、当時の民衆たち、多くは最下層の人たちと生活を共にしながら福音を語られるイエス様の姿が生々しく描き出されています。

 当然のことながら、イエス様を高みに祭り上げて、イエス様が語られたことや為されたことの真の意味を理解しようとしない弟子たちには、大変厳しい目が向けられています。

 マルコが描き出したのは、わたしたち普通の人間と共におられ、共に悩み、苦しまれ、ついには十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ!」(わが神、わが神、何故私をお見捨てなさる!)と絶叫して果てた真の人イエス・キリストの姿でした。神はそれを良しとされたのです。