1月 05, 2020

信仰とは?

「信仰」という言葉が、わたしたちが使っている新共同訳聖書で何回出てくるかご存知でしょうか?「ええっと、マタイの第1章は…、あれ出てこないぞ」なんて調べていくと時間がいくらあっても足りませんね。そういう時はコンコルダンスという便利な道具を使いましょう。でも、注意しないと日本語で「信仰薄き者」などと訳されているところまで検索されてしまいます。

「信仰」という名詞形は、新約聖書のギリシア語では pistis(ラテン表記)といいます。この単語が使われている回数は243回。日本語では先ほどのような例まで含めて、262回。多いと思われるか、意外に少ないと思われるか、どちらにせよ福音書に限るとこれが25回ほどになります。圧倒的に手紙で用いられているのがよく分かります。もちろん、多くはパウロ書簡。なんといっても「信仰義認」という言葉があるくらいですから。

面白いことに、同じ聖書でも旧約ではたったの7回。しかも、口語訳など別の訳では、ほとんどが「誠実な」とか「真実な」と訳されています。まあ、旧約聖書はヘブライ語で書かれていますから、ギリシア語で書かれた新約聖書とでは趣が違うのは分かるような気もしますが。

では、「信仰」ってなんでしょう?ヨハネによる福音書に、トマスという弟子が出てきます。イエス様が復活されたという話を聞いても信じようとしないトマス。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うトマス。そのトマスの前にイエス様が現れ、こう言われます、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

このトマスの姿は、わたしたち現代人に大変よく似ているように思えます。わたしたち現代人は、目に見えるものしか信じない傾向が強い。トマスもそういう人だったのでしょうか。

手の傷跡、わき腹の刺し傷、生身の体に触れなければ、それを信じることが出来ない。わたしたちはどうでしょう。トマスと同じように、生身のイエス様と出会わなければ復活は信じられないと言う人がいます。復活はなかった。それは弟子たちに現れた集団幻覚に過ぎない。復活したという歴史的証拠もない。そう言い切る学者もいます。

でも、それはおかしいと思うのです。イエス様はこう言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は、幸いである」。復活のイエス様の姿をじかに見てやっとそれを信じる気になったトマスに言われたこの言葉は、なんだかわたしたちに向けて語られたような気がします。

そうです。「信仰」とは、目には見えなくても、それを心から信じて疑わないことなのです。わたしたちに神の姿を見ることはできません。しかし、聖書に示された神をわたしたちは信じている。わたしたちの信仰は、2000年以上前に十字架に架けられたイエス・キリストを救い主、神の御子と信じることなのです。