1月 14, 2020

ヨハネ福音書について

 ヨハネ福音書は、紀元80年代後半から90年代前半に書かれたと推定されます。以前は2世紀(100年代)になってから書かれたという学者もいましたが、ジョン・ライアンズ・パピリというパピルスの断片が発見されて以後、執筆年代は大きく遡ることになりました。
 著者に関しては、福音書本文に「イエスの愛しておられた弟子」が書いたと書かれています(ヨハネ21:24)が、それが誰かは定かでありません。おそらくヨハネという名前を持った人だったのでしょう。エイレナイオスは「ゼベダイの子ヨハネ」(使徒ヨハネ)とし、パピアスは「長老ヨハネ」としています。どうやら著者ははっきりしないと言うのが正解のようです。ただ、彼がユダヤの土地について詳しく、ユダヤ人の習慣についてもよく知っていることからパレスチナ出身のユダヤ人キリスト教徒だったことは確かでしょう。
 書かれた年代は、他の福音書より遅く、80年代後半から90年代前半と推定されています。執筆場所はエフェソが有力ですが、アレキサンドリアを推す人もいますし、パレスチナから小アジアにかけての広い地域を想定する人もいます。場所もまた、よく分からないというところでしょうか。
 では、すでにいくつかの福音書が書かれているにもかかわらず、どうしてヨハネ福音書が書かれることになったのでしょうか。どうやら、著者と思われるヨハネは、他の福音書に物足りなさを覚えていたようです。伝承によれば、他の弟子たちもヨハネにこの福音書を書くように勧めたとされています。
 そのためか、ヨハネ福音書には、他の福音書と違う大きな特色があります。それは冒頭の一節を見るだけでもよく分かるでしょう。
 マルコ福音書をほぼ忠実になぞりながら、マルコに欠けていた誕生物語を取り入れたマタイ福音書の書き出しは、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」です。それに対し、ヨハネ福音書の書き出しは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」です。ずいぶん趣が違いますね。
 共観福音書は、イエス様の宣教活動とその生涯を人々に具体的に伝えることを最大の目的としていました。ところが、ヨハネ福音書の目的はやや異なっていたようです。
 ヨハネの目的は、「イエスは神の子メシアである」と読む人々に信じさせることでした。そのため、イエス様の宣教活動の中核をなす奇跡物語は減らされる反面、主題と結びついたイエス様による長い説話が取り入れられています。その書き方も、「わたしは…である」という定型句を用いて、イエス様の神性を強調するものとなっています。
 ヨハネの主張は、「ヨハネ神学」と呼ばれるように、奥の深いもので、簡単に要約することは不可能です。ただ、その中心が「先在と受肉のキリスト」にあることは確かなように思えます。第1章に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。この世に肉なる存在として遣わされたイエス様こそ、神の「独り子」、父なる神を啓示する神の御子に他ならないのです。

1月 05, 2020

信仰とは?

「信仰」という言葉が、わたしたちが使っている新共同訳聖書で何回出てくるかご存知でしょうか?「ええっと、マタイの第1章は…、あれ出てこないぞ」なんて調べていくと時間がいくらあっても足りませんね。そういう時はコンコルダンスという便利な道具を使いましょう。でも、注意しないと日本語で「信仰薄き者」などと訳されているところまで検索されてしまいます。

「信仰」という名詞形は、新約聖書のギリシア語では pistis(ラテン表記)といいます。この単語が使われている回数は243回。日本語では先ほどのような例まで含めて、262回。多いと思われるか、意外に少ないと思われるか、どちらにせよ福音書に限るとこれが25回ほどになります。圧倒的に手紙で用いられているのがよく分かります。もちろん、多くはパウロ書簡。なんといっても「信仰義認」という言葉があるくらいですから。

面白いことに、同じ聖書でも旧約ではたったの7回。しかも、口語訳など別の訳では、ほとんどが「誠実な」とか「真実な」と訳されています。まあ、旧約聖書はヘブライ語で書かれていますから、ギリシア語で書かれた新約聖書とでは趣が違うのは分かるような気もしますが。

では、「信仰」ってなんでしょう?ヨハネによる福音書に、トマスという弟子が出てきます。イエス様が復活されたという話を聞いても信じようとしないトマス。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うトマス。そのトマスの前にイエス様が現れ、こう言われます、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

このトマスの姿は、わたしたち現代人に大変よく似ているように思えます。わたしたち現代人は、目に見えるものしか信じない傾向が強い。トマスもそういう人だったのでしょうか。

手の傷跡、わき腹の刺し傷、生身の体に触れなければ、それを信じることが出来ない。わたしたちはどうでしょう。トマスと同じように、生身のイエス様と出会わなければ復活は信じられないと言う人がいます。復活はなかった。それは弟子たちに現れた集団幻覚に過ぎない。復活したという歴史的証拠もない。そう言い切る学者もいます。

でも、それはおかしいと思うのです。イエス様はこう言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は、幸いである」。復活のイエス様の姿をじかに見てやっとそれを信じる気になったトマスに言われたこの言葉は、なんだかわたしたちに向けて語られたような気がします。

そうです。「信仰」とは、目には見えなくても、それを心から信じて疑わないことなのです。わたしたちに神の姿を見ることはできません。しかし、聖書に示された神をわたしたちは信じている。わたしたちの信仰は、2000年以上前に十字架に架けられたイエス・キリストを救い主、神の御子と信じることなのです。